【記事】人工知能は人類にとって善なのか悪なのか? AIの権利が認められる時代とは

シンキングマシン

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AI――人工知能という言葉が誕生して久しく、その発展は目覚ましいものがある。今や、パソコンやスマートフォンとさえ簡単な会話なら成立する時代だ。車の運転をし、証券取引を行い、何十か国語の言語を翻訳し、人の顔を人間よりも正確に認識し、新薬を作る為の仮説を立てることさえ今のAIはできてしまう。AIは、これからの時代に欠かせない技術のひとつとなることは予想に難くない。だが、その未来において人工知能は単なる“人間の良き補佐役”で収まるのだろうか? そのような疑問を提起し、今後人工知能はどうなっていくのかを考えたのが『シンキング・マシン 人工知能の脅威――コンピュータに「心」が宿るとき。』(ルーク・ドーメル:著、新田享子:訳/エムディエヌコーポレーション)である。

AIが人間を超える能力を得た時、どうなってしまうのか――そのような問題は、実は今に始まったものではない。人工知能が学術分野として正式に確立される前から、それは考えられていた問題なのだ。そもそも“ロボット”という言葉の初出は1920年にチェコで行われた『R.U.R.』というSF劇である。この劇は、AIが人間に反旗を翻し、地球を乗っ取るというストーリーになっている。また、ロボットという言葉こそ出ないが、同じような発想をもとにした話にはメアリー・シェリーの小説『フランケンシュタイン』(1818年)がある。この小説をもとに、人造人間を恐れる人間心理を表すフランケンシュタイン・コンプレックスという言葉も生まれた。他にも、AIの反旗を恐れるテーマを扱った作品は小説・映画など様々なジャンルで見られる。現実の話に戻ると、1965年にアーヴィング・ジョン・グッドというイギリスの数学者が人間を超えた知能を持つ機械が世界にとってどういう意味を持つのかを理論化する論文を発表している。その論文の中で、AIは人間を知的たらしめる知的行動だけでなく、それをさらに上回る能力を持ったコンピュータであると定義されている。その論文中に綴られたグッドの以下の言葉は、広く引用されている。「機械の設計は知的活動の1つであるから、超知能を持つ機械はさらに優れた機械を設計できる。そうすると≪知的爆発≫が必然的に起き、人類の知能は大きく水をあけられることになる。世界初の超知能マシンが人類の最後の発明になるだろう」。ここで言う知的爆発とは、簡単に言えば優れたAIがさらに優れたAIを設計し、また自分のソフトウェアを自分で更新し、どんどんアップグレードしていくことであり、この自己改善が繰り返されると、次のAIが生まれるまでのスピードはどんどん加速し、機械の質自体が底上げされていくことになる。このAIの急速的進化こそが知的爆発であり、これが起きてしまえば人間の知能など及ぶべくもなくなってしまうだろう。AIがいずれ人間を支配する未来――それは、AIが考案された時期からすでに危惧されていた未来なのだ。……ところで、そのような未来を常に想定しつつも、どんどんAI開発を進め、現代に至るまで技術躍進に努めている現代の状況は、人類の発展が生む大いなるジレンマと言えるだろう。

では、このままAIの進歩が進んでいくと、どのようなことが起きるのだろうか。まず、現在手作業で行われている労働の大半はAIが担うことになるだろう。そうなれば、社会を支える大きな力となるAI使用に関する法整備がまず必要となるし、AIがどんどん“準人間”になっていけば、その権利を考慮していく必要もある。だが、AIとの結婚や、AIの公民権を認める議論が今後10年程度で活性化される可能性はかなり低いと言わざるを得ないだろう。幾ら人間に近づくとはいえ、感情を伴った人間と、計算で全てを認識する機械の境界線は明瞭だ。つまり、自律思考の有無が両者の違いとなるわけだが、これを基準にすれば胎児・脳死状態の人も“自律思考を伴わない人間”とみなすことができる。だが、胎児・脳死状態の人の権利を考慮する議論は活発に行われることに対し、AIに関するそれはまず行われないのだ。これは、AIの権利という議題が現代で考慮される問題として認識されていないことを示唆していると言える。仮にAIの権利が認められるとしたら、それはAIが人間と同等以上の存在――すなわち人間の支配者として台頭を始めた時かもしれない。

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